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シテ島とセーヌ川

    シテ島とセーヌ川

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ルテティア(Lutetia)

 セーヌ川の中州。紀元前250年頃から、「パリ」という名の由来となったパリシー族(Parisii)が住み始めた。その集落が現在のシテ島であるルテティア(Lutetia)。いわば、パリの始まりの地といえよう。

 カエサルの『ガリア戦記』(第7巻57)には、ルテティアがパリシー族の町であること、セークアナ川(現セーヌ川)の島の中にあったことが記されている。残念ながら古代から続く遺跡はほとんど残されていない。しかし、もっとも重要な面影は、そこに島が残されていること、古代と同じようにセーヌ川が流れていることであろう。また、この島が現在のパリ市のほぼ中心に位置していることも、古代の面影と言えるかもしれない。
 ただし、パリシー族の集落は、シテ島とは別の、今日では沈んでしまった島であるとする説もある。この場合は、ローマが支配権を手にした後に、シテ島を利用したと考えられる。

 ローマ人はシテ島からセール側左岸(南側)に町を拡大した。その後、町の中心は左岸に移る。左岸の町と右岸とはシテ島を通って渡された橋を介して結ばれていた。この橋はセーヌ川を渡るための主要な道路だった。そのために、シテ島は右岸勢力に対抗する要塞として役割を果たすことになる。

 現在のシテ島には、パリ最古のステンドグラスで知られるサント・チャペル(Sante-Chapelle)や、ナポレオンが1804年に戴冠式を行なったノートルダム大聖堂(Cathdrale Notre-Dame de Paris)があり、観光客でにぎわっている。
 しかし、 そこが一つの町であり、パリの始まりの地であることを思い出したとき、その小さな島が少し違った風景に見えるのではないだろうか。

シテ島とセーヌ川
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シテ島
「ノートルダム側にある古代ローマ時代の城壁の遺構」
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