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ローマの地理

 ローマの地理

このページでは、都市ローマを理解するうえで前提となる地理を解説します。
「七つの丘」と「ティベリス(テーヴェレ)河」、「古代の城壁」、「マルスの野」について。
このページのために用いた参考文献は、「地図で見る古代ローマ」にまとめてあります。


ローマの地理

 古代ローマの地理を考える上で、まず確認しておきたいのは、七つの丘(ローマ七丘)と河。
 ローマ市の西にはティベリス河が、北から南へ流れる。その左岸には、パラーティーヌスの丘を中心に、アウェンティーヌスの丘、カエリウスの丘、エスクィリーヌスの丘、ウィーミナーリスの丘、クィリーナーリスの丘、そしてカピトーリーヌスの丘がある。このティベリス河と7つの丘に守られた地域が、古代ローマの中心となる。今日では、丘もだいぶ削られ、建物が造られているが、その起伏を感じることはできる。

 七つの丘の中心、パラーティーヌスの丘の北にフォルム・ローマーヌムがあった。このフォルム(広場)がローマの政治・経済の中心であった。


ローマの城壁

ロームルスの城壁 (Murus Romuli
 伝説の王ロームルスは、パラーティーヌスの丘を四角い柵、のちには壁で囲みローマを建国したと伝えられている。「ローマ方形原領域(ローマクアドラータ、Roma Quadrata)」と呼ばれるこの地区(周囲およそ2キロ)ができたのは、紀元前753年4月21日。その後、セルウィウス王が前565年頃に7つの丘を囲む城壁を築く。さらにその城壁は、前509年から始まった共和政時代に補強された。

セルウィウスの城壁 (Murus Servii Tulli)
 セルウィウスの城壁(周囲およそ10キロ)は、後271年頃にアウレーリアーヌス帝が築いた城壁が登場するまで、ローマ市を規定していた。アウレーリアーヌス帝の城壁(Muri Aureliani)は、図示しなかったが、セルウィウスの城壁よりもはるかに大きなもので、現代までほぼ形をとどめている(周囲およそ20キロ)。今日ローマを訪れて目にする城壁は、このアウレーリアーヌス帝の城壁。セルウィウスの城壁は、ローマ終着駅(テルミニ駅)正面を出て右手のところに大きく残されているほか、駅のなかなど数箇所で確認することができる。

ローマの城壁 現代ローマと古代ローマの城壁
現代のローマ航空写真に、古代ローマの城壁の図を記した地図を、Google Mapsで見ることができます。また、カピトーリーヌスの丘にある二つの頂も記しました。城壁の位置などは完全に正確なわけではありませんが、大まかにはあっていると思います。画面の左側にある説明をクリックすると、地図上に解説も表示されます。拡大してみると細かい位置も確認できます。
 ローマに旅行に行ったときなどには、思い出してみると面白いかもしれません。


マルスの野

 セルウィウスの城壁からティベリス河までのあいだには、マルスの野と呼ばれる平原がある。伝説によれば、王政最後のタルクィニウス・スペルブス(傲慢王タルクィニウス)がこの平原を所有していた。共和政になったときに、この土地はタルクィニウス一族から没収されて公的なものとなった。

 ティベリス河がたびたび氾濫するために、当初マルスの野は居住地にはあまり適さなかった。しかし、この平原は放牧地として用いられるほか、主に軍事訓練を行なう場所として用いられた。軍事訓練の場所であったことから、「マルス(軍神)の野」と名づけられている。ただし、リーウィウスはこの平原が公的なものとなったときに、マルス神のために捧げられたことから「マルスの野」という名前になったと伝えている(2.5)。

 都市ローマが拡大するにつれて、土地が不足するようになる。マルスの野も次第に開発が進み、公共施設などが作られるようになった。そのために、後270年頃に築かれたアウレーリアーヌス帝の城壁は、このマルスの野を取り囲むために巨大なものとなる。

 ローマの人口はおよそ以下のように考えられている。前350年頃:30,000人、前300年頃:60,000人、前270年頃:90,000人、前200年頃:200,000人、前130年頃:375,000人、後14年頃:800,000人、後164年頃:1,000,000人 (人口については『古代ローマを知る事典』p.172以下に詳しい)。

 今日ではこのマルスの野がローマの中心となっている。


ティベリス河

 ティベリス河はイタリアで3番目に長い河で全長約400キロメートル。流域は約18000平方キロメートルで第2位。アペニン山脈のフマイオーロ山(海抜1407メートル)から始まり、ローマを貫けて、ティレニア海へと注ぐ。

 北から南へと流れるティベリス河は、マルスの野のところで大きく蛇行し、カピトーリーヌスの丘のところで再び大きく曲がる。そのためティベリス河は頻繁に洪水を起して、マルスの野やカピトーリーヌスの丘、パラーティーヌスの丘のふもとまで氾濫してきた。洪水が起こるせいで、前述のようにマルスの野は長いあいだ住居には適さなかったが、人口増加に伴ってティベリス河の淵まで居住地が迫った。今日では氾濫することもほとんど無いが、氾濫の痕跡はさまざまなところに残る。

 例えば、 ローマ建国の伝説にも残されている。アルバ・ロンガの王の娘レア・シルウィアは、軍神マルスとのあいだに双子の兄弟、ロームルスとレムスを産んだ。王位継承のもつれから、双子は籠に入れられてティベリス河に流される。その籠は、ティベリス河の氾濫によって流され、イチジクの枝に引っかかって漂着した。そこに一匹の雌狼がやってきて、双子を育てる。その後、王となったロームルスはパラーティーヌスの丘に「ローマ方形原領域」を造るのである。

 また、オードリー・ヘップバーンの映画『ローマの休日』で有名なスペイン広場には、破船の泉(バルカッチャの泉、la Fontana della Barcaccia)がある。この噴水を、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニの父、ピエートロ・ベルニーニ(1562-1629)が造った。この破船、すなわち壊れた船は、1598年に起きたティベリス河の氾濫の際に、打ち上げられた船をモデルにしていると言われている。

 さらに古代から存在するパンテオンやラルゴ・アルジェンティーナの遺跡は、今日の地表よりも5メートルほど下がったところにある。長い時間をかけて起こったこの地面の上昇には、繰り返し土砂を押し運ぶティベリス河の洪水が少なからず影響している。その洪水の記録は、パンテオン近くの聖母マリーア・ソープラ・ミネルヴァ教会堂で目にすることができる。教会の入口右手には、洪水が達した水位が刻まれている。

 このようにティベリス河畔は洪水が頻繁に起こり、居住に適していなかった。その代わりに、河は自然の堀の役割を果たし、右岸からやってくる外敵、特にエトルリア人の侵略を防いでいた。当然ティベリス河右岸は長いあいだ人の住む場所ではなく、河にも木製の橋(スブリキウス橋)がひとつだけかけられているだけだった。外敵が襲ってきたときには、すぐにこの木製の橋を壊して守りを固めた。

 古代において巨大な文明を残した多くの都市は、しばしば河川のそばに作られた。その多くの理由は川の水を飲料水に利用するためであった。しかし古代ローマにおいては、ティベリス河は防御の役割を担っていた。
 飲料水には、主に七つの丘のあいだを走る小さな川や井戸を利用していた。その小川は早い時期(紀元前4世紀頃)から整備され、地下水道管によって管理された。このような下水道設備の開発は、ローマの都市建設の基本的方針として受け継がれてる。今日、ローマのいたるところで目にすることができる噴水は、地下に走る水道管の要所に置かれている。


スブリキウス橋 スブリキウス橋の位置
スブリキウス橋の位置は、こちらで確認できます。
古代ローマ時代に架けられていた木製の橋。少し下流にあるPinte Sublicioと古代のスブリキウス橋は別のもの。


ラテン語名とイタリア語名


ラテン語名 ラテン語表記 イタリア語名 イタリア語表記
ティベリス河 Flumen Tiberis テーヴェレ河 Fiume Tevere
パラーティーヌスの丘 Mons Palatinus
Palatinum
パラティーノの丘 Monte Palatino
アウェンティーヌスの丘 Mons Aventinus アヴェンティーノの丘 Monte Aventino
カエリウスの丘 Mons Caelius チェーリオの丘 Monte Celio
エスクィリーヌスの丘 Mons Esquilinus エスクィリーノの丘 Monte Esquilino
ウィーミナーリスの丘 Collis Viminalis ヴィミナーレの丘 Colle Viminale
クィリーナーリスの丘 Collis Quirinalis クィリナーレの丘 Colle Quirinale
カピトーリーヌスの丘 Mons Capitolinus
Capitolium
カンピドッリオの丘
カピトリーノの丘
Campidoglio
Monte Capitolino
マルスの野 Campus Martius マルスの野 Campo Marzio
フォルム・ローマーヌム Forum Romanum フォーロ・ロマーノ Foro Romano

「丘」はMonsとCollisのどちらも用いるが、慣例に従った。
また、「カピトーリーヌスの丘」は「カピトーリウム」と呼ばれることも多い。パラーティーヌスの丘も同じ。


 

関連事項

フォルム周辺 フォルム周辺

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このページの最終更新 2008/1/29
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